2006年11月29日
国際交流の意味

●人の生活と言うのは、神様から授かった命を全うする為の個人の営み
とその「種」を未来へと繋ぐ為の公人の営みが有ります。
人間の「種」を未来へと繋ぐ為の仕組みとして、結婚・出産・子育てと
人としての大切な仕事が有り、その事を安全円滑に営む為に住まいを作
り、食べる為の仕事をしている訳です。
人間は、その事を上手に行っている時に幸福を得る事が出来、他の人に
も幸福を与える事が出来るのです。その事は先ず、親と夫婦と子供の関
係から始まります。
私達は、自分の命や自分の肉体を、自分の所有物のように考えてしまう
ような思い違いをする事が多いのですが、決してそうでは有りません。
自分の命や肉体は、神様から貸し与えられているもので、自分の思考と
いう「心」だけが自分だけのものであり、この現世と言う宇宙の中で自
分自身が自由自在に使える唯一のものなのです・・・。
●ところで、昔から生命誕生の始まりとして、「種」の保存の為に結婚
の相手を探す事には、血縁の近いものを疎まれる事は、「種」が広範囲
に広がっていく為の掟のようなものだと思います。
「種」は、環境の変化に強い新しい「種」を求めて、広い世界に旅立つ
宿命を背負っています。人間もその仕組みそのものに支配されているこ
とに変わりは有りません。
その事が起因して、現代の社会は人間の交流がグローバル化の一途を辿
っています。結果的に、近年の交通手段の発達やインターネット等の普
及が、その事に益々拍車を掛けています。
人の生活の場所に住まいが有り、人の住まい環境に適した所に生活の基
盤を置くことに成ります。国の範囲に囚われず、自由に生活の場所を選
べる様に成る事が、「国際交流」の意味と目的とも成ると思います。
結婚生活が国際化する事は、世界平和の為にも歓迎するべき事ですし、
人間がもっと自由の幸福を得る為には、必要な事だと思います。「国際
交流」の真の目的と必要性を理解したならば、国際結婚が必要に成って
来ている日本の現状に付いても理解できる事でしょう。
現在の日本の社会が、「虐待」や「汚職」や「嘘・ついしょう」の蔓延
した社会に成ってしまっているので、遅婚や少子高齢化の問題が出るの
も当然でしょう。
淀んだ空気には、新たな澄んだ空気を吹き込む必要が有る!と言う事な
のかも知れませんね・・・。
2006年11月26日
暮れなずむ牟礼岡団地です。

夕日に暮れなずむ牟礼岡団地の風景です。
牟礼岡の頂上から撮っていますので、日が沈む西に向かって日置方面の山並がバイオレットシルエットで写っています。混沌とした黎明か夕暮れかと言うほんの一瞬の光景です。
2006年11月26日
鹿児島県立石橋記念館・石橋念館公園

~写真は、鹿児島県立石橋記念館のページより~
平成17年1月30日(日)は、メールマガジンで有名な、がんばれ社長!
の武沢信行社長と同行して鹿児島市浜町の、鹿児島県立石橋記念館を訪れまし
た。前日の、薩摩非凡会の講師として、鹿児島大学の原口泉教授とダブルキャ
ストでお招きしていたので、帰りの飛行機便までの時間を市内観光に当てまし
た。その前に昼頃から中央駅の観覧車に乗り、鹿児島市内の城山や加治屋町界
隈や上町方面の町並み等を上空から見学し、蛇行しながら流れる甲突川の流れ
を感慨深く眺めました。
天文館から中央駅へと電車通りを繋ぐ高見橋と、加治屋町から高麗町へと繋ぐ
新しくなった高麗橋との間で、わずか1キロメートル程度の弧状の河畔地帯の
薩摩藩下級武士たちの屋敷群の中から、明治維新で活躍した日本の偉人達を数
多く輩出した事に付いて、武沢社長も驚きを感じながら見入っていました。
観覧車を降りると、すぐさまその加治屋町に点在する偉人達の史跡を歩き回り
ました。西郷・大久保・大山・村田・東郷・・・。1件1件歩く事で、点在し
ていた歴史の記憶が線になって結びついて来ました。
私の車で移動し、石橋記念公園に付いたときは、3時30分を回っていたので
時間はそれほど残っていませんでしたが、移設された西田橋を渡り西田橋御門
をくぐり、高麗橋・玉江橋と渡りました。最後に石橋記念館に入り、当時の資
料や、石切場の模型・石橋工事現場の模型などを見学しました。
江戸時代の末期に、薩摩藩の城下整備の為に美しいアーチ石橋が5箇所作られ
川上から、玉江橋・新上橋・西田橋・高麗橋・武之橋という順番で並んでいま
した。アーチは、上から4橋が4連アーチ、武之橋だけは5連アーチの大きな
ものでした。建造年代は、1845年~1849年に掛けて造られました。
これらは、薩摩5石橋として日本を代表する石橋群で、150年以上も現役で
利用されて来ましたが、平成5年の8・6大水害で新上橋と武之橋が破損流出
し、防災の為の河川改修工事で、5石橋の撤廃新設が検討されたのですが、石
橋保存運動が持ち上がり、現在の石橋記念公園への移設が決定しました。現在
移設復旧されたのは、玉江橋・西田橋・高麗橋の3橋になったのです。
石橋を渡りながら考えました。移設されたとはいえ、石橋の一つ一つの巨大な
石は、幕末の志士達の足跡が刻み込まれ、市民の生活の轍が刻み込まれている
ような気がしました。石の欄干に触れる事で、橋を造った多くの人や、橋を行
き来した人たちの声が聞こえて来るようでした・・・。その日も、目の前にそ
びえる桜島が人と石橋の歴史を包み込み、雄大な姿を見せていました。
「鹿児島県立石橋記念館」
http://www.seika-spc.co.jp/ishi/index.html
問い合わせ先:鹿児島市浜町1-3/TEL099-248-6661
e-mail:ishi-master@seika-spc.co.jp
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2006年11月25日
2006年11月24日
姶良・加治木・霧島

丁度去年の今ごろ、牟礼岡の山頂から東側に向かって写真を撮ってみました。
画面左から錦江湾沿いに、姶良町・加治木町・霧島市(隼人国分)です。
画面中央には遠くの霧島連山も写っています。桜島はもう少し右側に位置しますが、写真に入りきりませんでした。
2006年11月23日
花と果実

●私たちの人生に於いても、原因と結果という因果関係は切っても切れ
ないもので、蒔いた種はみな生えると言うように、行いの原因が現実の
結果をもたらす事が知られています。
そのことを考えると、草木花を代表する自然界の中でも、それぞれの種
の花が咲き、その結果として果実が実るように、そのことがその事で完
結する訳では無くて、連綿と繋がる事象の中の一時期の状態で有ること
が解ります。
ただ、自然界は常に同じことが繰り返される機械的な輪転では無く、何
か大きな意思に付き動かされているような“劇的”な、又は気が付かな
いほどの“微弱”な変化を伴っていて、原因がそのまま思っていた結果
に繋がらないこともしばしば有りますが・・・。
その様な変化が有ることもあえて包みこんだ新しい次の状態を、輪廻と
言います。花と果実との関係は、いわゆる輪廻を表したもので、命有る
ものは良かれ悪しかれ、次世代に続く為の花を咲かせ果実を結び種を残
そうとする働きが有ります。
私たち人間も根本的にその働きに変わりは有りません。ただ私たち人間
は、その良かれ悪しかれが教育を通して備わっている筈なのですが、そ
のことが理解出来ていない人も現在に来て大勢居るようです。
我が国に於ける、教育基本法の改正問題は、社会モラルの再生と基本的
な人権に関する再考をも含む重要な問題だと思うのですが、単なる政権
争いや政党間の駆け引きで、安易な落とし所を作って済ませる様では、
日本の未来が危ぶまれます。
「原因と結果」「花と果実」の理を良く噛み締めてより良い種を植える
努力を惜しまない事が必要だと思います。いくら綺麗な甘美な香りの花
でも、それぞれの良識に照らし合わせて、悪しき花は切り捨てる勇気が
必要だと思います。
それが出来ない日本人が増えたら、日本はまたまた大変な事に成ると思
います。「花と果実」は現在意思と未来の現実とも言えると思います。
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2006年11月22日
短編小説「一本の柱」
□短編小説「一本の柱」 □ さだひろし
その家には、思い出深い一本の柱が有った。幸夫が小学校から帰って
くると幸夫の母キミは、台所にあった小刀とまな板を取り出して、すぐ
にでも遊びに行こうとする幸夫を呼び止めて、その柱の前に立たせた。
その日は、幸夫の8歳の誕生日だったので、毎年伸びていく我が子の成
長を柱に刻み込もうとしていた。まな板を幸夫の頭の上に載せて、柱に
垂直に当てると、2センチメートルほど下にも一年前のしるしが残って
いた。古びた角が所々欠けて手垢で汚れた柱に刻まれたしるしの下のほ
うから上5番目に刻み始めた。
幸夫は、キミが小刀でしるしを付け始めると、「やまちゃんちで遊んで
くるね。」と言って勝手口から飛び出していった。勝手口は、土間にか
まどを置いただけの台所の横に、黒い板張りの引き戸が立てられていて、
がたがたと開けたかと思うと、幸夫の声だけが残っていた。
中腰から立ち上がり、ふと家の中を見渡すと、日に焼けた六帖の畳間の
先には、板張りの縁側に小積みになった洗濯物が散らばっている。先ほ
どの夕立で、あわてて庭先から取り込んだばかりだったことを思い出し
て、生乾きのジュバンやズボンやシャツを、縁側の物干し竿に掛け直し
ていった。
6帖間の隣りには、四帖半の仏間が有り、その横には6帖の寝室が有る。
薄暗いローカを挟んで、北側に浴室と便所が並んでいる。キミは、その
部屋部屋を軽く片付けてから、夫の武夫が帰るまでにと晩飯の支度を急
いでいた。
「ただいま。」と、幸夫が帰ってきた。先ほど刻んだ柱の傷を見ながら
頭の上に手を当てて、「もう少し上じゃない?」と言いながら無邪気に
笑った。「大きくなったね。」とキミが答えた。
武夫が帰る頃は、すっかり夜の帳が降り、天井から垂れ下がった傘付き
の裸電球が、家族三人の食卓の笑顔を照らした。幸夫の誕生日は、武夫
が海から捕ってきた鯛の魚と、柱の傷で祝われた。
「だんだん魚も捕れなくなってきたので、都会で仕事を探そうと思うん
だ。」武夫が神妙な顔で話し始めた。「仕事が見つかったら、引っ越す
事にしようか。」キミは複雑な気持ちを飲み込んで「そうですね。」と
答えた。「来年の今ごろは、ここには住んでいないかも知れないね。」
と武夫の言葉を聞いた幸夫は、柱の傷を眺めながら不安な気持ちを言葉
には出せなかった。
それから10年の月日が流れた。幸夫が高校3年生の夏休みに、都会
から遠く離れた故郷の村を友達2人を連れ立って尋ねてみた。子供の頃
住んでいた懐かしい風景はそのまま残っていて、かつて住んでいた家も
そのまま残っていた。ただ、思いのほかその頃より小さく感じるその家
の横には、新しい立派な住宅が建てられていて、表札も別の人の名前に
変わっていた。
物置となったかつての家の中を、新しい家の主に頼んで見せてもらった。
あの黒い引き戸の勝手口から入って、台所の土間は農機具の整理棚に成
っている。腰高の6帖間に上がってみると、ほこり被った古い箪笥や家
具の奥のほうに、あの一本の柱はそのまま立っていた。
五番目まで刻まれた、古い柱の傷を中腰で眺めていると、去年の夏に病
気で亡くなった母キミが今にもそこに居るようで、思わず涙があふれ出
てきた。しばらくの時間が過ぎ去った後で、あの勝手口から「行ってき
ます。」とつぶやきながら帰りの道を歩いていた。
一本の柱がその後どうなったのかは、幸夫には今と成ってはもう分から
ないが、あの柱が支えていた小さな家の思い出は、何時までも心の中に
残っていた。
それから20年が過ぎ、今年の年末には幸夫の家族5人の新築の家が
完成する。真新しい大黒柱が家の中央に建てられて、頑丈な土台とはり
を支えている。棟上の日を迎えた幸夫の2人の幼い子供達が、柱の前で
背比べを始めていた。幸夫は、小さくなった父武夫の肩越しにその光景
を眺めながら、「お母さん有難う。」とつぶやいた。
その後この家の一本の柱には、いくつもの思い出が刻まれる事だろう。
終わり。
(この物語はフィクションです。) 短編小説「一本の柱」 著作:さだひろし
その家には、思い出深い一本の柱が有った。幸夫が小学校から帰って
くると幸夫の母キミは、台所にあった小刀とまな板を取り出して、すぐ
にでも遊びに行こうとする幸夫を呼び止めて、その柱の前に立たせた。
その日は、幸夫の8歳の誕生日だったので、毎年伸びていく我が子の成
長を柱に刻み込もうとしていた。まな板を幸夫の頭の上に載せて、柱に
垂直に当てると、2センチメートルほど下にも一年前のしるしが残って
いた。古びた角が所々欠けて手垢で汚れた柱に刻まれたしるしの下のほ
うから上5番目に刻み始めた。
幸夫は、キミが小刀でしるしを付け始めると、「やまちゃんちで遊んで
くるね。」と言って勝手口から飛び出していった。勝手口は、土間にか
まどを置いただけの台所の横に、黒い板張りの引き戸が立てられていて、
がたがたと開けたかと思うと、幸夫の声だけが残っていた。
中腰から立ち上がり、ふと家の中を見渡すと、日に焼けた六帖の畳間の
先には、板張りの縁側に小積みになった洗濯物が散らばっている。先ほ
どの夕立で、あわてて庭先から取り込んだばかりだったことを思い出し
て、生乾きのジュバンやズボンやシャツを、縁側の物干し竿に掛け直し
ていった。
6帖間の隣りには、四帖半の仏間が有り、その横には6帖の寝室が有る。
薄暗いローカを挟んで、北側に浴室と便所が並んでいる。キミは、その
部屋部屋を軽く片付けてから、夫の武夫が帰るまでにと晩飯の支度を急
いでいた。
「ただいま。」と、幸夫が帰ってきた。先ほど刻んだ柱の傷を見ながら
頭の上に手を当てて、「もう少し上じゃない?」と言いながら無邪気に
笑った。「大きくなったね。」とキミが答えた。
武夫が帰る頃は、すっかり夜の帳が降り、天井から垂れ下がった傘付き
の裸電球が、家族三人の食卓の笑顔を照らした。幸夫の誕生日は、武夫
が海から捕ってきた鯛の魚と、柱の傷で祝われた。
「だんだん魚も捕れなくなってきたので、都会で仕事を探そうと思うん
だ。」武夫が神妙な顔で話し始めた。「仕事が見つかったら、引っ越す
事にしようか。」キミは複雑な気持ちを飲み込んで「そうですね。」と
答えた。「来年の今ごろは、ここには住んでいないかも知れないね。」
と武夫の言葉を聞いた幸夫は、柱の傷を眺めながら不安な気持ちを言葉
には出せなかった。
それから10年の月日が流れた。幸夫が高校3年生の夏休みに、都会
から遠く離れた故郷の村を友達2人を連れ立って尋ねてみた。子供の頃
住んでいた懐かしい風景はそのまま残っていて、かつて住んでいた家も
そのまま残っていた。ただ、思いのほかその頃より小さく感じるその家
の横には、新しい立派な住宅が建てられていて、表札も別の人の名前に
変わっていた。
物置となったかつての家の中を、新しい家の主に頼んで見せてもらった。
あの黒い引き戸の勝手口から入って、台所の土間は農機具の整理棚に成
っている。腰高の6帖間に上がってみると、ほこり被った古い箪笥や家
具の奥のほうに、あの一本の柱はそのまま立っていた。
五番目まで刻まれた、古い柱の傷を中腰で眺めていると、去年の夏に病
気で亡くなった母キミが今にもそこに居るようで、思わず涙があふれ出
てきた。しばらくの時間が過ぎ去った後で、あの勝手口から「行ってき
ます。」とつぶやきながら帰りの道を歩いていた。
一本の柱がその後どうなったのかは、幸夫には今と成ってはもう分から
ないが、あの柱が支えていた小さな家の思い出は、何時までも心の中に
残っていた。
それから20年が過ぎ、今年の年末には幸夫の家族5人の新築の家が
完成する。真新しい大黒柱が家の中央に建てられて、頑丈な土台とはり
を支えている。棟上の日を迎えた幸夫の2人の幼い子供達が、柱の前で
背比べを始めていた。幸夫は、小さくなった父武夫の肩越しにその光景
を眺めながら、「お母さん有難う。」とつぶやいた。
その後この家の一本の柱には、いくつもの思い出が刻まれる事だろう。
終わり。
(この物語はフィクションです。) 短編小説「一本の柱」 著作:さだひろし
2006年11月20日
鹿児島の歴史館・維新ふるさと館

画像は鹿児島市のホームページより、記事は2004年4月8日の記録です。
桜散る4月の初旬、久々に県外から里帰りした姉「初子」と姪「町子」の為に、鹿児島の観光をと思い立った所が「維新ふるさと館」でした。
前日に祝った、母「ハナ」の90歳の誕生日は、もう一人の姉「えみ子」とその娘「ちえ子」そして私の妻子4名で、母の寝たきりのベッドの脇にささやかな晩餐会のテーブルを囲んだ。
笑い声が絶えない、ひとときの時間が過ぎていった。
明日には帰る事になっている姉に、母は何度も「有難う」を繰り返し、「今年のお盆には必ず又来てね・・・。」と、小さくなったその声で何度も何度も繰り返していた。
一人暮らしの母の家からの帰りがけに「最近特に、昔話が多くなったね。」との妻の言葉に、「もう長くは無いかも知れないね。」と相槌を打ちながら母の人生とその歴史について考えていた・・・。
あくる日の午後から、姉達を夕方の帰りの飛行機の時間まで、鹿児島の歴史について学べる「維新ふるさと館」を案内する事にしました。
鹿児島は、明治維新の立役者「西郷隆盛」「大久保利通」をはじめ、多くの偉人達を輩出している。それも、現在の鍛冶屋町の近辺、当時の下級武士達(郷士と呼ばれた)の屋敷郡に集中している。
「維新ふるさと館」は、その甲突川河畔の桜並木の堤の上に建設されている。その日は、紅白の桜や八重桜が満開を過ぎて、葉桜が黄緑の芽吹きを始めている日でした。
「維新ふるさと館」は、私自身3回目の見学だったので案内役をするつもりだったのですが、一度入館するとその感慨に言葉を発する気にも成らず、当時の薩摩の志士達の心中を察することに集中してしまいました。
地下1階の維新体感ホールでは、音や光やロボットによる演劇が繰り広げられ、知れば知るほど感動の涙を禁じ得ません。西郷さんを始め、大久保さん村田新八、勝海舟、坂本竜馬、等・・・歴史上の人物像がリアルに蘇って来て、黎明に生きた偉人達の人物像が手にとるように分かります。
使命感で生き使命感で死んでいった、当時の英雄達の生き様を感動的に感じながら、一人の人間として時代に翻弄されながら、名も無く生きて死んで行った、多くの人達の人生を考えずにはいられませんでした・・・。
鹿児島「維新ふるさと館」のホームページ
http://www.city.kagoshima.lg.jp/wwwkago.nsf/V_W_SUB_CATEGORY/E2FD64B37D3B303749256CE1001F39F4 続きを読む
2006年11月19日
今朝の桜島・今朝の開聞岳
今朝の桜島は山頂部分が雲に隠れていました。
今朝の開聞岳(画面左端の三角に尖った山)は、白い雲がたなびいていました。
雨上がりの朝で、空気が澄んで居たので遠くまで視界が広がっていました。
鹿児島市内のビルや建物がマッチ箱のように見えます。左側に広がる錦江湾は、波も無く穏やかな浅い藍色に染まっていました。どちらも私の自宅の窓から撮った風景です。
2006年11月17日
鹿児島の地域紹介「嘉例川駅」
●牧園町の売り物件を取材するついでに、兼ねてから気に成っていた、嘉例川駅を見に行ってみた。懐かしい木造の駅舎が、とても暖かく迎えてくれて、しばし我を忘れて見とれてしまった・・・。
そこには、100年以上の間に、たくさんの人の訪れを感じさせる、柱や壁の刷り傷やしみがいたるところに感じられるが、驚くほど静かな佇まいが似合っている。
何時もは、駅員もいない静かな駅だが、私が訪れたその日は、丁度イベントの打合せか何かで業者さんらしい人たちが数名集まって来ていた。
●鹿児島空港から霧島牧園方面に車で行くには、国道504号線を隼人姫城方面におりて、国道223号線にぶつかった交差点を左折し、天降川の渓谷沿いに223号線を北上する道と、鹿児島空港から国道504号線を栗野方面に走って、1Km程の最初の信号を右折して223号線に合流する道が有ります。後の道を選ぶと途中の山道に、嘉例川駅←の看板が有り、少し細い脇道へ左折すると300m程度で嘉例川駅に付きます。
●嘉例川駅(かれいがわえき)は、鹿児島県霧島市隼人町嘉例川にある、九州旅客鉄道(JR九州)肥薩線の駅です。山間の小さな駅は、1903年・明治36年から開業された古い名残の有る駅で、創業100年を越える古い建物は、現在でも明治時代の設備や雰囲気をそのまま残しています。駅舎は旧隼人町が買い取り、地元のボランティアや国鉄OBなどの手により整備されています。
続きを読む・・・⇒ http://sanshin-home.jp/sanshin/kareigawa-eki.htm
JR 嘉例川駅(鹿児島県霧島市隼人町嘉例川) 地図 □平成18年6月22日 さだひろし
2006年11月15日
木の中で暮らす・趣味の家・ログハウス
木の中で暮らす
平成17年4月21日(木曜日) 鹿児島県鹿児島市石谷町(旧松元町)
●今日は、鹿児島でログハウス作りに取り組む「ログビルダー田中」さんの仕事現場に訪れた。

東回り高速道路に鹿児島インターから乗って、伊集院の方に5~6分程度走ると松元インターがある。そのインターチェンジを降りて、旧道を3分程度走り、左へ右へと数回曲がりなら、昔ながらの農村地帯へと入り込んだところで、先導の田中さんの車が止まった。雑木林や孟宗竹林が立ち並ぶ合い間に、数件の家の門や入口が見えてる。道路よりも少し高台に位置し、入口の斜路を登った所に施主の家が有った。平屋で和風の建物である。築年数はそれほど経っていない。
施行現場は、施主の自宅庭先の一角である。裏山との間にある30坪程の平坦な敷地に、建坪15坪程の丸太組みの建物が建っていた。外観はほぼ完成に近いと思うが、外部足場がまだ外れていないので良くみると、防腐剤塗装がまだ済まない所が少し残っている。力強い木材を、ふんだんに使った丸太小屋は、十分な存在感が有るものである。庭に咲くツツジや形良く剪定されたイヌマキの木との調和も美しい。思わずデジカメのシャッターを何度も押した。
●建物の中に入いると、杉の香りがぷーんと立ちこめた。荒削りの太い柱や梁が木目や柾目をあらわに見せている。床も壁も、ふんだんに使った木材の重量感により、飛び跳ねても叩いてもびくともしない。それでいて、木材の温もりに包み込まれているようだ。
●部屋の真中の大きな螺旋階段も、半割の丸太材を組み上げて作られている。二階吹き抜けの手摺や、その支柱も大きな丸太で組まれて作られていて、いかにも野趣があり面白い。まだ乾燥していない木材をそのまま組み上げて有るので、乾燥による変形に耐えるためにも、材料の厚みや太さが必要なのだそうだ。なるほどこれなら少々変形しても、削ってしまえば良さそうだ・・・。
●さて、このログハウスの大きな特徴は、施主の裏山に有った杉山を伐採し、そのまま丸太材として使用したところにもある。しかも切り倒した杉の切り株が残る土地を切り込み場として活用し、製材から材木加工をそこで行うと言う、多能工ならではの現場施行が行われた。
始めに部材に見合うだけの立ち木を見積して木に印を付け、伐採する範囲を決める。仕事場を確保する為に一定の広さの立ち木は全て切り倒し、細い木はそれなりの部材へと加工する。チエンソーで切り倒してから、長さを揃え、材木を並べ皮むきを行う。図面に応じた部材決めを行い、番号を付けてから、それぞれの組み手継ぎ手の切り込みを行う。乾燥していない木材を扱うので、乾燥時の変形を想定した切り込みを行わなければ成らない。従ってログの組み手継ぎ手は、すかすかではいけない。どんつきハンマーで叩き込むほどの密着が必要だ。
全ての木材をこの裏山の杉材で調達し、手作業で加工製材したので材料代はほとんど必要なかったと言う。水道やガスの設備が無かったので、電気配線の他は、基礎コンクリート・窓サッシ・屋根スレート・金具・防腐塗料等を購入した。そう言えば、既製品の建材が殆ど無いと言う事で、材料からのオーダーメイドということは、如何に贅沢な建物かと言うことが言えるかもしれない。
●裏山の切り込み場には、まだまだたくさんの丸太や材料が並べられていて、これから内部の間仕切りや建具がここから作り出されていくと思うと、手造りの物の創造性には頭の下がる思いがするし、又、限り無い可能性を感じる。
土を捏ねて土器を作る陶芸家や彫刻家のような、芸術にも相通ずるような、自分の手からこの世に存在する物を作り出していく・・・。そんな、物作りの魅力に取り付かれた一人の「ログビルダー」が又一人此処にもいて、完成時の施主の喜ぶ顔を思い浮かべながら、今日も切り倒した材料と悪戦苦闘しているのです。
●でも、田中さんは言います。「木は嘘を言わないし、教えられる事がたくさん有ります。そんな中で生活が出来れば最高です。皆さんも木の中で暮らす喜びを感じてみませんか・・・?。」
帰り道、敷地内の孟宗竹林には、旬の筍があちこちに伸びて来ていました。あまりにも多いので取り尽くせ無かったのでしょうか?。
趣味の家・ログハウス
http://sanshin-home.jp/sanshin/tanaka.htm
平成17年4月21日(木曜日) 鹿児島県鹿児島市石谷町(旧松元町)
●今日は、鹿児島でログハウス作りに取り組む「ログビルダー田中」さんの仕事現場に訪れた。
東回り高速道路に鹿児島インターから乗って、伊集院の方に5~6分程度走ると松元インターがある。そのインターチェンジを降りて、旧道を3分程度走り、左へ右へと数回曲がりなら、昔ながらの農村地帯へと入り込んだところで、先導の田中さんの車が止まった。雑木林や孟宗竹林が立ち並ぶ合い間に、数件の家の門や入口が見えてる。道路よりも少し高台に位置し、入口の斜路を登った所に施主の家が有った。平屋で和風の建物である。築年数はそれほど経っていない。
施行現場は、施主の自宅庭先の一角である。裏山との間にある30坪程の平坦な敷地に、建坪15坪程の丸太組みの建物が建っていた。外観はほぼ完成に近いと思うが、外部足場がまだ外れていないので良くみると、防腐剤塗装がまだ済まない所が少し残っている。力強い木材を、ふんだんに使った丸太小屋は、十分な存在感が有るものである。庭に咲くツツジや形良く剪定されたイヌマキの木との調和も美しい。思わずデジカメのシャッターを何度も押した。
●建物の中に入いると、杉の香りがぷーんと立ちこめた。荒削りの太い柱や梁が木目や柾目をあらわに見せている。床も壁も、ふんだんに使った木材の重量感により、飛び跳ねても叩いてもびくともしない。それでいて、木材の温もりに包み込まれているようだ。
●部屋の真中の大きな螺旋階段も、半割の丸太材を組み上げて作られている。二階吹き抜けの手摺や、その支柱も大きな丸太で組まれて作られていて、いかにも野趣があり面白い。まだ乾燥していない木材をそのまま組み上げて有るので、乾燥による変形に耐えるためにも、材料の厚みや太さが必要なのだそうだ。なるほどこれなら少々変形しても、削ってしまえば良さそうだ・・・。
●さて、このログハウスの大きな特徴は、施主の裏山に有った杉山を伐採し、そのまま丸太材として使用したところにもある。しかも切り倒した杉の切り株が残る土地を切り込み場として活用し、製材から材木加工をそこで行うと言う、多能工ならではの現場施行が行われた。
始めに部材に見合うだけの立ち木を見積して木に印を付け、伐採する範囲を決める。仕事場を確保する為に一定の広さの立ち木は全て切り倒し、細い木はそれなりの部材へと加工する。チエンソーで切り倒してから、長さを揃え、材木を並べ皮むきを行う。図面に応じた部材決めを行い、番号を付けてから、それぞれの組み手継ぎ手の切り込みを行う。乾燥していない木材を扱うので、乾燥時の変形を想定した切り込みを行わなければ成らない。従ってログの組み手継ぎ手は、すかすかではいけない。どんつきハンマーで叩き込むほどの密着が必要だ。
全ての木材をこの裏山の杉材で調達し、手作業で加工製材したので材料代はほとんど必要なかったと言う。水道やガスの設備が無かったので、電気配線の他は、基礎コンクリート・窓サッシ・屋根スレート・金具・防腐塗料等を購入した。そう言えば、既製品の建材が殆ど無いと言う事で、材料からのオーダーメイドということは、如何に贅沢な建物かと言うことが言えるかもしれない。
●裏山の切り込み場には、まだまだたくさんの丸太や材料が並べられていて、これから内部の間仕切りや建具がここから作り出されていくと思うと、手造りの物の創造性には頭の下がる思いがするし、又、限り無い可能性を感じる。
土を捏ねて土器を作る陶芸家や彫刻家のような、芸術にも相通ずるような、自分の手からこの世に存在する物を作り出していく・・・。そんな、物作りの魅力に取り付かれた一人の「ログビルダー」が又一人此処にもいて、完成時の施主の喜ぶ顔を思い浮かべながら、今日も切り倒した材料と悪戦苦闘しているのです。
●でも、田中さんは言います。「木は嘘を言わないし、教えられる事がたくさん有ります。そんな中で生活が出来れば最高です。皆さんも木の中で暮らす喜びを感じてみませんか・・・?。」
帰り道、敷地内の孟宗竹林には、旬の筍があちこちに伸びて来ていました。あまりにも多いので取り尽くせ無かったのでしょうか?。
趣味の家・ログハウス
http://sanshin-home.jp/sanshin/tanaka.htm
2006年11月14日
鹿児島市の市街地再開発

画像はYahoo!地図より
(メールマガジン「土地と建物の関係」2006/09/06号にて掲載)
●昨日は、月間不動産流通や「re-port.net」でお馴染みの(株)不動
産流通研究所の取材を受けました。テーマとしては、不動産業者の立場
から見た“鹿児島市の市街地再開発の現状と今後の見通し”ということ
だったので、住宅の取引を主に扱っている私にとっては、一寸畑違いかな
とも思いましたが、当地の生活者の立場としての意見でも構わないとい
う事で、それならばと快く引き受けました。
取材は、鹿児島中央駅ビルのアミュプラザ5階の「いちにいさん」で、
担当者と待ち合わせをして、お昼ご飯を一緒に食べながらのマンツーマ
ン・Q&A形式で行われました。
午前11時に別件の予定を済ませてから、12時丁度に待ちあわせの店
に辿り付いたら、記者の福岡さんは先に来ていて、駅前広場や桜島が見
える東側の窓際のテーブルに座っていました。
名刺交換と自己紹介を行ってから、食事の注文を行いながら、天気があ
いにくの薄曇りで桜島がはっきりと見えないことや、最近は降灰が少な
い事など、取りとめの無い話題から入り、記者にとっての鹿児島の印象
などを質問したりもしました。
鹿児島の印象としては、桜島・西郷さん・焼酎・黒豚・特攻機地・など
が有りますが、やっぱり繁華街の天文館という印象も、ビジネスで鹿児
島を訪れたことの有る人には印象深いようです。
それから、鹿児島市は地方都市としては市街地に活気が有ると言う印象
も有るということで、鹿児島市もなかなか捨てたものでは無いと思いま
した。その後は記者の質問に答える形で取材が始まりました・・・。
確かに市街地型の賃貸マンションや分譲マンションは、ここ近年急速に
増加しました。又、中央駅ビルアミュプラザ建設や新幹線の乗り入れに
よって、中央駅界隈の再開発が行われ、人や車の流れが良く成ったと思
います。
当然、地価も徐々に値上がりしてきたので、不動産の流れも良くなって
きました。地価に付いてはピーク時までとは行かないまでも、土地活用
の有効利用が行われて、住商のバランスの取れた再開発が行われている
と感じています。
鹿児島市の市街地は、地方都市の特徴である地域完結型の商業エリア形
成が理想的な街だと思うので、高層オフィスビルが連立する首都圏のよ
うな街並みではなく、中高層の住宅・商業ビルが適当な距離を置いて、
低層ビルや駐車場・緑の公園などの公共施設がバランス良く配置されて
いるというのが現在の良い要素だと思います。
繁華街の天文館地区では、中央駅ビル建設当時から、繁華街の移動によ
り天文館地区が廃れるのでは無いかと言う危惧を抱く声もあり、危機感
を募らせていましたが、そのことが逆に刺激になり、地元商店主組合の
活動が活発になり、現在では天文館地区の再開発も順調に進んでいるよ
うです。
又、再開発された中央駅から、従来の繁華街の天文館を結ぶ電車通りの
約1.5kmの間に、歴史的な史跡や跡地が数多く残っていて、鹿児島
の歴史を堪能できるスポットが建ち並んでいます。
休日の日の午後、特に目的は無くても、新幹線の中央駅で降りてからア
ミュプラザでファーストフードを頬張り、電車通りを天文館方面にぶら
ぶらと歩いてみる。
大正時代のガス灯のような街灯や、電車通りのレトロな電柱が規則的に
並ぶ大通りを散策しながら、甲突川の上を通る高見橋を渡って、鍛冶屋
町・高見馬場へと歩く間にも、たくさんの歴史的な横道の筋や辻に入れ
ば、鹿児島の昔を思い出させる史跡や遺跡がたくさん保存されています。
そんなところが人気の場所となって、観光客の観光地としてだけではな
く、今まで鹿児島に住みながら、鹿児島の歴史をよく知らなかった若い
年代の住民にも人気が出ています。
鹿児島市の市外地の魅力は、何と言ってもロマン溢れる歴史の面影を残
しているところに有ると思います。そして一度は近代化の波に埋もれて
掛けてしまった歴史の真実を、市街地の再開発を契機にもう一度掘り起
こして見ることで、その地の歴史が息吹を持つと思います。
どこの地でも、その地の古き時代を偲びながら、新しいものをその上に
築いていくという意識を持つことで、古き良きものが新しいものに力を
与えてくれるんだと思います。
市街地の再開発は、リフォームにも良く似ていて、すべてを取り払って
新築することでは出来ない、なんとなく落ち着くような味を残しながら
、機能を新しくするような仕組みを造らなければ成功しないと思います。
鹿児島市の市街地再開発計画、それは近年始まったばかりのプロジェク
トでもあり、今後どのように動いていくかはこれからの課題ですが、現
在のところは、紛れも無くよい方向に進んでいると思います。
忘れては成らないのは、鹿児島市はそこに住む人々の心が作り上げて来
た土地で、日本国土の南の外れであり、新しい異国文化をいちはやく取り
入れてきた街だということです。
鹿児島市は伝統と改革の機微を身を持って経験してきた街です。皆さん
もぜひ一度この街に遊びにいお越しください。歴史と現代と自然とが調
和した、素晴らしい街に感動して頂けると思います。
*「土地と建物の関係」HP ; http://sanshin-home.jp/totitate/
2006年11月12日
鹿児島・薩摩の歴史の道!東目筋 「大口筋・白銀坂」
●平成18年5月4日、ゴールデンウイークの真中でもあり、早朝から清々しい晴天でだったので、兼ねてから念願だった白銀坂の散策を思いついた。家内に一緒に歩いてみないか?と誘うと、すぐさま承知の返事が返ってきたので、お昼におにぎり弁当でも食えるような時間に出発する事にした。
午前10:00時、車で白銀坂入口まで行ってそこから歩く事にした。私の自宅は吉野から続く滝之神隼人線の名残が残っている牟礼岡の麓に有る牟礼岡団地に有るので、白銀坂入口までは歩いても15分程度と近いのですが、最近は少し運動不足でも有るのであまり無理をしないようにと、入口までは車で向かう事にした。
牟礼岡自然遊歩道入口の登山道入口がある、島津の森付近は、牟礼岡遊歩道を上るために集まったハイカー達の車が、何台も路肩に停まっていたので避けながら少し走ると、島津ゴルフ倶楽部の入口とマッシーミニゴルフ入口へと続く道に分かれている。
島津ゴルフ倶楽部の方へと右折して500m程の道沿いに、白銀坂入口が見えてきた。車を道端に寄せて止めてから、重富までの下りの工程を歩き始めた。
坂の入口には「大口筋白銀坂」と書かれた、わりと真新しい石碑が立っている。そこからは不揃いの割石を敷き並べたような石畳が始まり、少し緩やかな下り坂の中央部分を蛇行して下りている。道の右左には杉の木が立ち並び、次第に深い森の中へと続いていた。
続きはHPで・・・⇒ http://sanshin-home.jp/sanshin/sirakanesaka.htm
2006年11月11日
良い田舎暮らし実現の為に必要な事は?
これから数年間、都会で頑張った団塊の世代の方々が、定年退職と共に続々と地方にU・Iターンするという予測がされて居ますが、良い田舎暮らし実現の為に、私が地方自治体に期待するのは、その地域の産業なり観光なりのその地域の特性を十分把握し、将来へ向けての方向性を打ち出してもらう事が必要だと思っています。
地方が都会からの受け入れ養老院と言う機能で終わらない為には、第二の人生の活発な活動が出来る環境を作る事だと思います。そして、そのことに賛同するU・Iターン希望の先輩たちを数多く受け入れる事で地域の活性化を促進出来ると思います。
言い換えれば、人間が住む環境として魅力溢れる田舎を作ることが、必要だと思います。それは、第一次産業の再生で有ったり、観光産業の再開発で有ったり、住環境・医療福祉の整備で有ったりすると思いますが、基本的な事は、人が人としての心を持ち、他人への思いやりの有る社会を作る事が最も大切なことだと思います。
与え与え合うと言う心を大切にする・・・。
遥か昔、人間が持っていた素養を思い起こせる地域社会を再建する事が出来たならば、例え経済的には貧しくても、その地域が心豊かな地域と成ることでしょう。そうなれば自然とその土地は肥え作物は実り、産業は活発に成る事と思います。
理想と現実は違うと思うかも知れませんが、自分の現実は自分の心が作っているのですから、自分の心に大いに理想を描いて生きましょう。
2006年11月07日
牟礼岡・裏山の霊
■「牟礼岡・裏山の霊」 記録日 05/08/29
今日は、犬との毎朝の散歩コースを少し変更して、牟礼岡団地の西側に有る小高い岡に登った。いつもの様にAM5:30に家を出てから、西の方へと歩きはじめた。団地のはずれまでアスファルトの道路を歩いたあと、平屋建ての一軒家の横から繋がる山道に入ると、砂利敷きで車が一台通れる程度の林道になっている。そこから犬の首輪の紐を外してやった。
グレイスにとっては初めて通る道なので、興奮してはしゃぎまわりながら、後になったり前になったりして付いてきた。暫らく歩くと森の中を抜け、見晴らしが利く場所まで出た。車の転回場所のように広くなったところが有り、その先は車も当分通った事が無い様で、萱や雑草が覆い被さっている。そこから先はゆるい下り坂になっていて、先に進もうと思えば行けそうだったが、今日のところはすぐ左手のこんもりと小高い岡に登りたかったので、登山道らしい道の痕跡を見つけて、所々萱に覆われた藪の中に分け入った。
確かに道の跡ではあるが、ここも当分人が通った気配が無い。少し急な登り坂に成っていて、背の高い萱と茨が覆い被さり、擦り傷覚悟で掻き分けて進んだ。
グレイスはと言うと、足元の低いところは意外と隙間があり、さっさと先に上っていく。「おいおい待ってくれよ!」と言いながら、息を切らせて岡の頂上を目指した。
この山は、何年も前に雑木林を伐採したらしく、丈の高い樹木は生えていない。背丈ほどの萱と、所々残っていた木の株から芽を出して育ったと思われる広葉樹の細い幹が、すっと伸びて葉を付けている。タラノ木やヤマウルシ等もその中には有る。
イヌビワの木が赤から紫紺へと変わりつつある実を付けていた。イヌビワは、クワノ木科の低木で、イチジクの仲間であり、小さなイチジクのような実を付ける。犬が好んで食べるので、この名前が付いたのだろうと思う。勿論グレイスも好物で、夏場の間は散歩の途中の楽しみとしていた。
さて、ようやく頂上が近づいてきた時、突然登山道らしき道が無くなってしまった。折角此処まで来たのだからと思い、何とかして頂上からの眺めを見てみたいという一心で、無理やりさらに深い草むらに分け入ってみた。そこは足元も悪く岩もゴツゴツしていて、前に進むのもなかなか容易ではない。流石に頂上からの眺めは諦めて引き返す事にした。
そこでふとグレイスがいない事に気が付いた。まさか遠くには行っていないだろうと思い、名前を呼んだり口笛を吹いたりして呼んでみたが、物音一つしない。さては私を見失ったので、先に登り口まで降りたんだろうと思い、来た道を名前を呼びながら引き返し、林道まで降りて待つ事にした。
ところが、林道で待つ事小半時。グレイスが降りてこない。まさか犬がこれ位の山で迷子になる筈は無いと思い、一人で家に帰ったんだろうと思い直して、急いで帰宅してみることにした。自宅に帰り着くと、グレイスはまだ帰っていないと言うではないか。これはまずい!と早速車を飛ばして現地捜索に出かけた。
すぐさま林道の入口まで到着し車ごと入り込んだところ、林道の奥の方から、グレイスがとぼとぼと歩いてくる姿が見えた。「無事だったか!良かったなあグレイス」と言いながら、朝露でずぶぬれになったグレイスを抱きかかえ、車に乗せてやった。心なしか体が少し震えていた。
どうやら、私とはぐれてしまったあとは、山道をあちこち歩きまわったらしく、体中が泥や芥で汚れていた。何とか林道までは遅れて降りてきて、既に私がいなかったので、林道を行ったり来たりしながら私を探していたらしい。初めての迷子の経験で驚いたのか、タオルで体を拭いて遣っても、ぶるぶるふるえながら今来た林道の奥を見つめていた。山の中で、もののけの霊に出遭ったのかもしれないと思った。
《参考》
「牟礼岡の風車」 http://sanshin-home.jp/sanshin/mureoka-fuusya.htm
「あべ木川」 http://sanshin-home.jp/sanshin/abeki-kawa.htm
「M高原・夏の朝」 http://sanshin-home.jp/sanshin/murekougen.htm
2006年11月05日
「田舎の暮らし」~牟礼岡団地偏~
(2005年6月29日談)
●田舎で暮らしていると、本当に些細な事にも楽しみを見つける事が出来る様になるものです。私が住んでいるところは、距離的には市街地に近い近郊の地域で、交通の便利さもそこそこ良くて、本当の田舎と言うほどでは無いのですが、昔ながらの農村や山林に囲まれた地域です。
その上、昔の史跡や道の跡などが残っているところもあちこちに有り、最近は仕事の合間の時間を見つけて、道路沿いから筋道を見つけては、分け入ってみています。
江戸時代に島津の殿様の参勤交代の時にも通っていた、大口筋や日向筋へと繋がる、東目筋と言う山道を辿っていく事に楽しみを覚えています。
今でも通れる道として残っているところも有りますが、新しい道路工事の為に、せき止められたり段差が出来ている場所も有り、道そのものが分らなく成っているところも有ります。
地図を見ながら、おおよその見当を付けてから道の名残を探してみると意外なところにそれが見つかったりすることが有り、面白いものだと思います。
歩きながら道端の植物を観察するのも楽しいものです。実にたくさんの種類の植物が有るものだと感心します。殆どの植物が名前も分からないのですが、ヨモギ、オオバコ、ドクダミ、カタバミ、露草、マムシグサ等・・・。その他数十種類の草花が不規則に生息しています。
帰ってからインターネットで調べると、なるほどあの草はこんな名前なんだ!と、その時は分るのですが、数が多くてとても覚えきれません。ガーデニングで使う、大輪の庭の草花とはまた一味違った、小さいけれども生命力にあふれた野草の花も又、可憐で綺麗なものです。
ウサギやタヌキに出合ったり、綺麗な瑠璃色のキジの雄に遭うことも有ります。森の木の上では、ウグイスやヒヨドリの鳴き声が響き渡り、風の梢を揺らす音がザワザワと谷を渡り、突然の雷鳴とともに振り出した夏の夕立が、草の萌える匂いをムッとわきたたせました。
先日は山道で、大名竹の筍が伸び出ているのを見つけました。大名筍は筍の中で一番美味しい筍です。道端にせり出して伸びている中から、太目の筍を選んで、3本ほど採って帰りました。湯がいてからわさび醤油で食べました。
山道を歩いていると、耳元でブンブンと言う小さな羽根虫が寄ってきたりします。「ぶよ」という虫で、うっかりすると血を吸われるし、その後が痒くなったり腫れたりするので、笹や木の枝を折り取って持って歩き、ブンブン音が近づく度に、頭の上を払います。
なんだか、地鎮祭の時の神主さんのお払いの儀式のようだと思いながら虫を払う事と悪霊を払う事は、遠い昔どこかで繋がっていたのかも知れない・・・などと考えながら、山道を登ったり下ったりすることが最近の楽しみにもなって来ました・・・。
今日は、田舎暮らしのよもやま話でした。 (2005年6月29日談)
【参考】
「牟礼岡の風車」
http://sanshin-home.jp/sanshin/mureoka-fuusya.htm
「アベ木川」
http://sanshin-home.jp/sanshin/abeki-kawa.htm
「三井ニュータウン」
http://sanshin-home.jp/sanshin/furu_yosida.htm
2006年11月04日
「真の障がい者の自立を考える会」の集い
さつまブロのMLに投稿された告知を転載します。
===第二回 「真の障がい者の自立を考える会」の集い===
今年の10月、「障害者自立支援法」改正法案が施行されました。
その結果、障がい者の人たちは、生活していくうえで最低限のサービスさえ、
受けられない情況になっています。
「わたし達の声を聞いてください!」
~障がい者が苦しんでいます~
いっしょに考えてください。 2回目の集まりが開催されます。
日時:平成18年11月19日(日曜日) 14時から
場所:ザビエル教会1階(鹿児島市平之町)
連絡先: 「真の障がい者の自立を考える会」
代表 川涯利雄(かわぎわとしお)
電話・ファックス 0995-67-1778
http://ameblo.jp/11kagoshima
===========================
県議会議員の酒匂さんのブログには、1回目の集いのことが
レポートされています。
http://taku-taku.blog.ocn.ne.jp/takutaku/2006/10/post_07ed.html
興味のある方は、是非ご参加ください。
===第二回 「真の障がい者の自立を考える会」の集い===
今年の10月、「障害者自立支援法」改正法案が施行されました。
その結果、障がい者の人たちは、生活していくうえで最低限のサービスさえ、
受けられない情況になっています。
「わたし達の声を聞いてください!」
~障がい者が苦しんでいます~
いっしょに考えてください。 2回目の集まりが開催されます。
日時:平成18年11月19日(日曜日) 14時から
場所:ザビエル教会1階(鹿児島市平之町)
連絡先: 「真の障がい者の自立を考える会」
代表 川涯利雄(かわぎわとしお)
電話・ファックス 0995-67-1778
http://ameblo.jp/11kagoshima
===========================
県議会議員の酒匂さんのブログには、1回目の集いのことが
レポートされています。
http://taku-taku.blog.ocn.ne.jp/takutaku/2006/10/post_07ed.html
興味のある方は、是非ご参加ください。
2006年11月01日
田舎暮らしは面白い
今日は、メールマガジンを発行しました。
=住宅建築と不動産情報の総合情報誌==〈VOL,225-06/11/01号〉==
****************************************************************
∥Ψ ̄/\Π ̄|週刊メールマガジン(水曜日発行)(01/05/23創刊)
∥Ψ/□■\Ψ|「土地と建物の関係」これがマイホームの夢と知恵袋
∥Ψ∥■■∥Ψ|====三伸ホーム さだひろし 読者数:915名=
∥Ψ〓〓〓〓Ψ|~~~~ http://sanshin-home.jp/totitate/ ~
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
新規購読の方始めまして!継続の方今回も購読頂き有難う御座います!
―【今回の目次】――――――――――――――――――――――――
1,□■【本文】 ~「田舎暮らしは面白い」~
2,□■【新着不動産情報】~「 http://b.sanshin-home.jp/ 」~
3,□■【お勧めサイト】「関西あおぞら合同事務所」
http://www18.ocn.ne.jp/~k.aozora/
4,□■【次回の予定】~次回は、11/08(水曜日)発行予定です。~
5,□■【筆後のあれこれ】~●今日から11月に突入したと~
――――――――――――――――――――――――――――――――
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-==-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
1,□■【本文】■□~「田舎暮らしは面白い」~
●最近は鹿児島の牟礼岡団地も、有名に成ってきたようで私のHPのア
クセスログを調べて見ると、検索エンジンからの検索キーワードに「牟
礼岡」と言う検索履歴を時々見ます。
今日は、県外からお客様が尋ねて来られて、2年後には停年して鹿児島
に帰るので、そのときは牟礼岡団地に住みたい。それまでに中古売り家
を世話して欲しいと言うお客様でした。
又、今年の夏に牟礼岡団地に家を買って頂いたお客様で、外国で事業に
成功されている社長さんがオフで帰ってこられて、今日から10日間ほ
どは牟礼岡の家に滞在されるそうです。
留守の間は私が有料で家の管理をしているので、帰った時も安心だと笑
顔での再会でした。日本に帰った時は、ゴルフをしたり天文館で食事を
したり、牟礼岡で散歩をしたりと、しっかりリフレッシュしてから仕事
に復帰するそうです。
交通網が発達し、情報通信が発達した現在は、田舎に住むということは、
決して仕事をリタイヤしてからとか言うことでは無くて、仕事をしなが
らや、田舎で新しい仕事を始める事などで、面白くすることが出来ると
思います。
そんなに思うように行かないとか、現実と理想は違うとか否定的な事を
思うことも有りますが、田舎に住むということを楽しむ事は、都会に住
むことを楽しめる人だったら誰にでも出来ることだと思います。
仕事を楽しくすることと、暮らしを楽しくすると言うこと事は同じ事で
も有り、どこに居てもどんなことをしていても、面白いと思えば面白い
し、つまらないと思えばつまらないものだと思いますので、出来るもの
なら面白く暮らしたいと思います。
そのためにどうすれば?と考えて、追求していくことが面白いのだと思
います。与えられた条件の中で自分なりのベストを尽くすことで、結果
がどうだろうと一通りの満足が得れると言うことが有りますが、田舎暮
らしを楽しむということもその一例だと思います。
ともあれ理屈を抜きにしても、田舎暮らしは本当に面白いものですよ!。
●本文は以上です。